武漢禍・総締め括りの段 その3


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楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは津島神社にいます。6月11日 3:54 ・ 津島市

武漢禍総締め括り最終段。

禍退散総括りの参拝に上がらせて頂いた津島神社の元宮「居森社」より。
この地は、全国約三千天王社総本社の全ての始まりの地であり、病禍退散祈願を捧げるに当たり、非常に重要な要めとなる地なのである。

津島神社は、嘗て「津島牛頭天王社」と称された。
そもそも、牛頭天王とは、遠くインド天竺の五精舎(仏教の黎明期、古代インドに建造された5つの寺院)の一つで、釈迦が説法を施した「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」、則ち「祇園精舎」の守護神の事で、その名は、仏教教典「法華経」「華厳経」等の経文に記載される「牛頭栴檀(ごずせんだん」なる香料に由来する。
牛頭栴檀とは、南インドのヒマラヤ山脈に横たわる牛頭山に自生する香木から精製した香料のことで、その麝香に似た馥郁が熱病を除く効能を有している。
天王信仰は、この効能と疫病退散信仰とが結び付き、形成されていった。

仏教の影響の強さは、津島神社社伝を見ても明らかである。
社伝によれば、人皇七代孝霊天皇45年年(紀元前245年)に、素戔嗚尊の荒御魂は出雲日御碕に鎮まる一方、和御魂は一旦対馬に鎮まった後、欽明天皇元年(540年)に、現在の居森社に鎮まったとされる。
素戔嗚尊が牛頭天王として津島に降臨された事や、降臨された年代、此地に至られるまでの聖蹟を辿れば、仏教が現在の津島に伝来したのとほぼ同時に、牛頭天王が素戔嗚尊に垂迹され、その信仰が此地へ齎され、お祀りされる事となったと思われる。
また、本地垂迹としては、薬師如来とも同視されている。

素戔嗚尊は、仏教のみならず、陰陽道の北極星(北辰=太極)陰陽五行説の強い影響下、「天道神」とも同一視されたので、夏越と年越の大祓では特に重視されたのだった。
そして、「備後風土記」にも在る通り、武塔神=素戔嗚尊=牛頭天王であり、その御神威が余りにも強過ぎるが故に、荒御魂が暴発すれば疫病を蔓延させ、和・奇・幸御魂が施されれば、疫病を封じもする大いなる御神威を持っているのだ。

古代には、津島神社の鎮座する周辺のほとんどは海に面していた事から、この地は各地への重要な航路に繋がる港であった。
上述の通り、素戔嗚尊をお祀りする神社が御祭神を「牛頭天王」と表わす場合は、仏教との習合が見られる事が多い。

その牛頭天王を載せた神船が津島の港に着いた時、蘇民将来の裔孫に当たる老女が霊鳩の御神託を受け、牛頭天王を津島の森の中に斎き奉った事により津島神社元宮が鎮座、「居森社」と称され、これが津島神社の創祀となる。

また、もう一つ、忘れてならぬのが出雲神の系譜である。
そこを踏まえて鑑みれば、不破の関周辺が金山大神崇敬の伝播地となった事も必然であった事が判る。

吉野朝時代には、津島神社は官軍に属した。
その為、後醍醐天皇の皇孫にして宗良親王皇子・尹良(これなが)親王の御子・正二位大納言良王(ながおう)が戦乱から逃れて津島にご来臨され、更にその子・良新(ながたか)が津島神社の神職を務めている。
また、後村上院の御代である建徳元年(1370年)には、正一位の神階を授けられており、中世の津島神社の歴史は吉野朝官軍側の基盤の一つとされた。
また、戦国期には、織田氏が氏神とした事からも、信長が吉野朝、則ち、皇統に重きを置いた事は明らかである。
信長が掲げた「天下布武」の真の意義についても、後日、お伝えさせて頂く。
謂わば、我が祖・楠公にも繋がる強く有難き御神縁を感じるのであるが、何よりも、吉野朝廷によって為された神宮を始め此処津島神社等の景仰復興のプロジェクトを鑑みれば、吉野朝廷が国體中興として目指した国造りの意義がより一層はっきりと浮かび上がってくる。
そう。
鎌倉以降に台頭してきた武家のほとんどは、不勉強により理解できていたなかったのだろうが、日本の歴史とは、神々に祈りを捧げつつ、自然災害と共に在り続けたものであった。
日本の国家を、そして国民を平和に安らかに治める為に、最も肝要となるのが神々の和・荒・奇・幸御魂の中取りもち、すめらみことの尊きお役目であった事は言うまでもない。

この日は、どこを撮っても、羽を広げた金の鳥が写りこんだ。
そして、帰路、ふと見上げた金鵄が鎮まる南宮山頂に、大きく翼を広げた神鳥を見た。
二千年の時を超え、古代と現代の時空とその祈りとが交叉するのを強く感じた。

間も無く大祓。
日本再興、その黎明の時は目前に迫る。



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