長岡の楠公社(水戸浪士の毛塚)を参拝

長岡の楠公社-

 

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは茨城県を訪問され、茨城県茨城町長岡の楠公社(水戸浪士の毛塚)を参拝されました。
参拝後、茨城県庁を表敬訪問されました。

大老・井伊直弼襲撃を企てた水戸浪士が、江戸へ向かう途中、南北朝時代の尊皇の武将・楠木正成(大楠公)一族の忠誠にならい、髪の毛を断ち切り、長岡宿へ埋めて、襲撃の成功を祈りました。

そして、1860(安政7)年3月3日、江戸城桜田門外にて、水戸浪士17名と薩摩藩の有村次左衛門が、大老・井伊直弼を暗殺しました。

明治になってから、長岡の住民が、埋めてあった水戸浪士の毛を掘り返して、長岡字天徳寺に塚を作って埋めました。

そして、塚の上に、楠公社を建立しました。

水戸浪士の毛塚の隣には、石碑が建っていて、金子孫二郎・高橋多一郎の他、井伊直弼を襲撃した水戸浪士17名と薩摩藩の有村次左衛門の名が刻まれています。

高橋多一郎が詠んだ歌が刻まれている石碑が、垣根の陰にあります。

「菊水の 清き流れを長岡に 汲みて御國の塵を洗わん」

桜田門外の変に向かう前に、この長岡の地で、高橋多一郎が詠んだ歌です。

高橋多一郎は、桜田門外の変の実行部隊では無いが、桜田門外の変後、大阪四天王寺にて追手に捕らえられそうになり、子と一緒に自刃しました。

大阪四天王寺にての自刃の際、高橋多一郎が詠んだ時世の句です。

「鳥が鳴く 東健夫の まごころは 鹿島の里の あなたぞと知れ」

この水戸浪士の毛塚は、1974年9月14日に、茨城町の史跡に指定されました。

毎年、旧暦の3月3日には、氏子によって、慰霊祭が行われるそうです。

境内には、「茨城百景楠公社」の碑が建っています。

今は住宅が建って、景色が遮られてしまったが、かつては、眼下に涸沼や田園地帯を見渡せる景勝地だったと思われます。