長瀬神社


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楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは、花井錬太郎さんと式内 長瀬神社にいます。 ・ 三重県 鈴鹿市 ・

古来、「武備塚古墳」と称され、日本武尊ゆかりの能褒野原に鎮まる墳墓の一つとして厚い崇敬を受けてきた地に鎮座する長瀬神社は、日本武尊外二十五柱を祀り、明治までは「武備神社」と称された。

江戸時代、大きな権勢を誇った亀山藩は、江戸中期になり日本武尊御陵探索が始まるとすぐさま、自領内に於いて、日本武尊ゆかりの墳墓と伝わる武備塚こそが日本武尊御陵であると公に宣言した。

以後、藩威発揚の心柱として、亀山藩の厚い崇敬を受けた由緒深き古社である。

明治以降は、鎮座地名を採って現社名に改名されている。

「武備(タケビ)」とは、日本武尊家臣団のうち武門を主とした家臣団の呼称であり、時代が下り「建部(タケベ)」と字が変遷していき、近江国一之宮・建部大社の社名にも深く関わっている。

同じく能褒野原に同時期に造営された円墳で、加佐登神社御本殿奥の白鳥塚古墳に比べると一回り小さい事、そして、日本武尊家臣団を表す「武備」と名付けられている事から、日本武尊御陵たる白鳥塚古墳の陪塚としての意味合いが強い墳墓であるようにも感じられた。

長瀬神社駐車場一角には、古来より例祭時の相撲場とされた祭祀跡が往時のまま残されている。

日本武尊を慕い、片歌研究者として知られる建部綾足(タケベノアヤタリ)は、日本武尊の今わの際の絶唱「はしけきや 我家のかたゆ 雲居立ちくも」の句碑を武備塚上に建立した。

伊吹山下山後、体を壊した日本武尊は、足の節々を腫らし、この地に辿り着く頃には歩行困難に陥っていたが、それでも尚、家臣団「武備」らに両脇を抱えられ、引きずられるようにして、伊吹山からこの地までようやく辿り着いた。

日本武尊の今際の際の願いは、故郷・大和に帰る事であったが、遂にその願いは叶う事無く、能褒野原の地で薨去された。

この日は、長瀬神社へ向かう車移動中のみ豪雨に見舞われたが、長瀬神社に到着した途端に晴天となった。

そして、武備塚古墳の日本武尊絶唱の句碑に着いた瞬間、再び雨が降ったがそれも一瞬で上がり、長瀬神社を後にし加佐登神社へ向かう為に境内を出る時には嘘のような晴天となった。

句碑前の雨は、日本武尊家臣団の涙であったのかもしれない。



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