稲蔵神社


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楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは稲蔵神社にいます。
7月7日 2:40 ・
奈良県生駒山麓に、鬱蒼と生茂った、少し薄暗い雰囲気のここ稲倉神社へ。
ここは紀元以前の古代から「神宿る巨岩・磐座」の霊験あらたかなる聖域として厚く崇敬されてきた。
同じく生駒山麓に鎮座する往馬大社と並び、生駒山の神々の坐す神域となる。

境内は昼尚薄暗いが、いざ、鳥居をくぐるり、鬱蒼とした森に封じられた境内の奥からは強い御神威を感じる。
余りに強い御神威を発する為に、鎮守森で封じているのかもしれない。

御祭神の生魂(イクタマ)は生命の神様で 生きる為の最も大切な「命を守る」神。

遥か古代、九州高千穂の天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天磐船に載り降臨する前、生駒山に降臨したもうひとりの古代大和の王であり、もう一人の天孫であった饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)もまた、現在の生駒山系である「哮峯(タケルガミネ)」に天磐船にて降臨、境内に鎮まるご神体の稲倉神社境内の巨大磐座「烏帽子岩」に饒速日尊が降臨、その際、共に天下った尊の「生魂」と「大宮能売御膳神」の二神の命の神も宿り、同時に鎮まった。

間も無く、饒速日尊は、同じく生駒山系の鳥見・白庭山に移った。

かくして、瓊瓊杵尊に互角に拮抗する強大な力を有する事となり、生駒山系を主要拠点した一大勢力となった。

しかし、神倭磐余彦(後の神武天皇)が宮崎から紀州を迂回し大和へと進軍して来、磐余彦の軍と饒速日尊の軍とが対峙した折、饒速日尊は争いの激化を避ける為、自ら、降る事を選択しようと考えた。

そうした処が、饒速日尊の妹・登美夜毘売(トミヤヒメ)が嫁いでいた長髄彦(ナガスネヒコ)は、義理の兄たる饒速日尊の決断に従わず、徹底抗戦の構えを崩さなかった為に、遂に、饒速日尊は義理の弟たる長髄彦を自らの手で暗殺、倭磐余彦に降った。

更に興味深いのは、稲蔵神社宮司家は、饒速日尊の重臣・長髄彦の末裔が務めていらっしゃる。

一旦は、仲違いに至った義兄弟でしたが、今は、義弟末裔が、自らを裏切り見捨てた義兄神を祖神としてお祀りされていらっしゃるのであり、これもまた、義に熱い大和民族の国柄であると、大いに考えさせられるものがある。

自身の末裔である神武天皇に王権を譲った饒速日尊は、その後は活躍の場を裏舞台に替え、饒速日尊以降、一族に伝わる十種神宝を以て、命と魂に活力を与える秘伝を密かに護り伝えつつ、大和朝廷と皇室を陰から支える事となった。

十種神宝の内容は以下の通りである。
* 沖津鏡(おきつかがみ)
* 辺津鏡(へつかがみ)
* 八握剣(やつかのつるぎ)
* 生玉(いくたま)
* 死返玉(まかるかへしのたま)
* 足玉(たるたま)
* 道返玉(ちかへしのたま)
* 蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話との関わり
* 蜂比礼(はちのひれ)  同上
* 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

これらの経緯によって、稲倉神社磐座に降臨された饒速日を祖とする物部氏が、十種神宝等を始めとした兵器の製造・管理を司ってきた訳であり、これが石上神宮の鎮座にも深く関わっています。

生駒山系一帯には、饒速日尊降臨の地が交野市「岩船神社」、河南町「岩船神社」、山山頂近くの「饒速日山」、生駒山山頂「饒速日山」等等、幾つかの降臨地の候補が伝わるが、いずれにせよ、生駒山系一帯が饒速日尊の支配拠点であった事は間違いない。

境内には「神変大菩薩(ジンペンダイボサツ)」の御神名も刻まれ、即ち、役行者を祀っているが、こちらは古来の神仏習合の名残と言える。

明治時代以降は、地元では武運長久の「玉避け神社」の神として信仰されるようになった。

稲倉神社氏子区域たるここ小明村から日清日露戦争に13名が出征、不幸にも1名の戦死者を出したものの、12名との人々が無事帰還でき事蹟を鑑みれば、そこには人智を遥かに凌駕した神の力を禁じ得ない。

今では、無病息災・交通安全・病気平癒の御神威で知られ、今も尚、多くの方々に尊崇されている。



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