元徳3年(1331年)9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。
幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した
だが、楠木正成は寡兵ながらものその攻撃によく耐えた。
敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた。
敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落とし敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした。
これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った。
楠木正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った。
新井孝重は、一土豪に過ぎない楠木正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している。
単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、楠木正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている。
楠木正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに楠木正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる。
しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた。
鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。

