千早城合戦図

護良親王

 

 

 

河内千破城図

 

 

河内千破城図

 

やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した。
これに対し、楠木正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。

 

楠木正成は金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。

元弘3年/正慶2年(1333年)2月以降、楠木正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)。
楠木正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年閏2月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。

 

 

護良親王

 

幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、楠木正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。
5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった。

 

足利 尊氏

 

そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は楠木正成の奮戦に起因するものであった。
楠木正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった新田義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである。

 

 

 

新田義貞

 

楠木正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、6月2日に兵庫で出迎え、道中警護についた。

 

天皇が兵庫を出発して以降、楠木正成はその行列の先陣を務め、その後陣には畿内の軍勢7千騎を引き連れていた。