千早城の包囲・攻撃

千早城の包囲・攻撃

赤坂城の陥落後、包囲していた幕府軍は千早城へと出軍し、吉野から来た軍勢もまた千早城に駆け付けた。
『太平記』によると総勢100万と号する大軍が千早城を包囲し、籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの小勢で守ったとされる。
「城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充満せり」
とあり、数十倍の大軍が千早城に押し寄せて来た様子がうかがえる。

赤坂城で勝利した勢いで鎌倉幕府軍は一気に攻略しようと、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。
千早城では櫓より大石を投げ落として敵の楯を砕き、逃げ惑う兵には矢を降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった。
「長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負死人の実検をなしけるに、執筆十二人昼夜三日が間筆をも置かず」と太平記にあり、長崎高貞が死者の数を確認するのに書記12名が昼夜3日間筆が離せなかったほどと言われている。

そのため、今後は総大将の許可なく合戦を行う者は罪に問うと触れを出したため、戦いはしばらく休戦状態となった。

 

『大楠公への敬愛』