長梯子の計と火計

長梯子の計と火計

千早城合戦図(長梯子の計の場面が描かれている)/湊川神社蔵、歌川芳員画

包囲軍の持久戦に対して、同年3月4日に鎌倉より「戦をせずにただ時を過ごすとは何事か。すぐに城を攻略せよ」と厳しい下知が届き、将士を督励することになった。

そこで包囲軍の諸将らは相談し、味方の戦線である近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上る計画を立てた。京より大工衆500余人を呼び集められ、五、六寸(約15、16cm)や八、九寸(約24、27cm)の材木を集め、広さ一丈五尺(約4.8m)、長さ20丈余(約66m以上)の橋を造った[1]。 完成後、橋に大縄を二、三千本結び付けたのち、車木(滑車か)を用いて橋を巻き上げ、城の崖に倒して橋を架け、兵たち5、6千人が城内へ向かって殺到した。

楠木正成はかねてより用意していた松明に火をつけて、薪を積み上げるように投げ、 水鉄砲の中に油を入れて橋に注いだ。
城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると谷風に煽られた火により橋が中ほどより折れ、数千人が橋とともに猛火に落ち重なって焼死した、と『太平記』に記している。

『太平記』以外の史料に「長梯子の計」の記述が無いことから信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから、『千早赤坂の史跡』によると「太平記には誇張はあるにしても実際に実行されたと考えられる」としている。

『千早城合戦図』(長梯子の計の場面が描かれている)

湊川神社蔵、歌川芳員画