湊川神社例祭

大楠公命日の7月12日(新暦)、大祭である湊川神社例祭に楠公末裔として参列いたしました。

延元元年5月25日、大楠公は足利の大軍とここ湊川にて激突、約7時間にも及ぶ激戦の末、神社境内北西辺りで弟・正季と刺し違え自刃しました。
7月12日は、旧暦5月25日を新暦に改めた日にあたり、大楠公の遺徳を忍び毎年盛大な神事が斎行されます。
湊川神社の最も大切とする大祭の一つであり、私どももとても重んじている神事です。
この日は、全国神社からも多くの祝辞をいただき、厳かな祭となります。

神事後の直会では、兵庫県議会議員の和田有一郎様、神戸市議会議員の浦上忠文様を始めとした議員方々もご参列になられており、国家国民を思われるそのお志に心を打たれました。
また、湊川神社と同じく建武中興の十五社の鎌倉宮の小岩宮司様、福井の藤島神社・新田宮司様、四條畷神社の米村宮司様もご参列くださり再会のご挨拶をさせていただきました。
鎌倉宮は大塔宮護良親王、藤島神社は新田義貞公、四條畷神社は楠木正行公をお祀りする神社であり、湊川とも大きな繋がりがあるのです。
建武中興十五社、湊川神社も併せますと四社が集う祭事となり、中興に尽くされた英霊の御魂もとてもお喜びになられておられる事でしょう。

神事後は、神能殿にて幻の映画「鹿島映画 ~世阿弥~」を鑑賞。
鹿島映画とは、「鹿島中興の祖」と言われる鹿島組社長(昭和13年就任)・鹿島守之助氏が昭和38年に設立した株式会社日本技術映画社が前身。
この鹿島守之助が企画し、白洲正子の原作、黛敏郎が監修を務め制作されたのが鹿島映画「世阿弥」。
白洲正子のエッセイを映像化した作品で、能楽を独特且つ斬新な視点から優れた映像美で表現したもの。
中でも圧巻なのは、嫡男・観世元雅暗殺(諸説有り)後の失意の中で生まれた世阿弥の最高傑作「井筒」のシテの女の鬼気迫る程の深遠な美しさには鳥肌が立ちました。
能には、死者への弔いという側面もあると言われます。

7月12日、大楠公殉節の日に、幻の能楽映画である「世阿弥」を殉節地で鑑賞したという事は、まさに大楠公の魂の鎮魂とも言えるでしょう。
非公開の貴重な映像を鑑賞させていただきました。
7月14日午後2時からも再演されますので、ご都合が合われたらぜひご覧になられてください。
幻の貴重な作品です。

伊勢神宮の遥宮・伊雑宮へ

伊雑宮-

伊勢神宮125社の1社にして、志摩一の宮である伊雑宮へ。


神宮の遙宮(とおのみや)として知られ、古来より篤い尊崇を集めてきました。

倭姫命が御神霊奉斎の地を伊勢に定めた後、神饌を奉納する場所を求めて志摩国へ赴いた折、真鶴が稲穂をくわえ飛び立つ様を見て「瑞祥の地である」とし、この地を選定して伊雑宮を建立されたのが由緒となります。

境内に隣接する「御神田」では、毎年6月24日に「御田植祭」が斎行され、早乙女らが田植えを行う神事は国の重要無形民俗文化財に指定されています。

特筆すべきは、この神事の起源は、平安時代の末ごろと伝承されているものの、記録としては南北朝時代の建武2年(1335)が最古にして最初の記録であるという事です。
建武中興を成し遂げた後醍醐帝が、如何に伊勢神宮の奉斎の再興に力を入れられたかという事が窺われ、私、楠公研究会としても中興の中心的理想について考える上で、注視致したき事蹟であります。

このお宮に私自身、自ら参拝させていただいたのは初めてでした。
伊雑宮について、多くの方々から様々なお話を伺ってきましたが、天照大御神の温かい御神威と温かい神々の気配を感じた事は紛れもないものでした。

ところで、この後の写真ですが。
またまた、Facebook投稿の折に、無人の所、しかも伊雑宮本殿の御扉に何かがタグ付けされました。
伊雑宮はミステリーな事が多いとは聞いておりましたが、奇しくも、自らがそのミステリーを経験させていただきました。

#伊雑宮 #御神田 #御田植祭 #神事 #御本殿 #瑞祥 #倭姫命

天の岩戸@伊勢

天の岩戸(猿田彦神社)

伊勢神宮の南に遺る天の岩戸。

伊勢の山深くに、天照大御神が隠れられたという天の岩戸が遺されています。

人里から遠く離れた異世界で、ここでは携帯の電波も届かぬ完全な異空間。

超絶パワースポットと噂されるだけの事はあります。

#伊勢神宮#天の岩戸#天照大御神#異空間#異世界

元伊勢・瀧原宮

瀧原宮

伊雑宮と並び、皇大神宮別宮とされる聖域中の聖域であり、昨今の言葉で言うところの「パワースポット」の中でも特に強いご神威があられるのだとか。

倭姫命は、伊勢神宮を天照大御神のご神霊の永遠の奉斎地と定める前に、ここ瀧原宮が奉斎の地に選定されました。

この地に入ろうとした倭姫命は、その前を流れる流れの早い宮川に行く手を阻まれ困っていたところを、近くに住まいしていた真名胡神が助け、無事、倭姫命は川を渡る事ができました。

観光客で賑わう伊勢神宮から遠く離れており、厳粛なまでに静謐な神域は、古来、多くの人々の信仰の地とされてきました。

五十鈴と同じく、禊の為の御手洗場もあり、伊勢神宮の原型を為しているかのようです。

参道の真ん中に聳える、木の肌が螺旋状に巻いた大きな御神木も印象的でした。
鳥居前に掲げられていた「倭姫伝説」の中で、倭姫命を助ける真名胡神はとてもイケメンでした。

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修験道根本道場・櫻本坊

勅願寺・吉野の櫻本坊

ここは、大海人皇子、後の天武天皇を皇位に導いた桜の吉祥夢ゆかりの地で、天武天皇・持統天皇の勅願寺。
天武天皇は即位後、神国としての基盤をしっかりと確立すべく、斎宮制度を整えられました。
そして、度々、吉野へ行幸をなされています。
国家中興に於いて、吉野は非常に重要な地であった事が窺われます。
そして、後醍醐天皇の中興の理念も、吉野を知らずして語れません。
よく有りがちな解釈で、後醍醐天皇が吉野へ「お逃げになられた」などと表現する方もおられますが、これは誤り。
正しくは「御遷幸」。
国家国民を護る為、有るべき国家の中興を果たす為には、吉野でなくてはならなかったのです。

天智天皇との対立を避けるべく、弟の大海人皇子(後の天武天皇)は、ここ「櫻本坊」の前身・日雄(ひのお)を離宮とし、隠棲していました。

そんなある冬の日に、大海人皇子は、桜が咲き誇っている夢を見、何らかのご神意を感じました。
そして、役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に、この不思議な夢について訊ねたところ、「桜の花は古来、花の王と云われる。近々皇位に着く吉兆です」と答えた。
そして、その後、実際に大海人皇子は壬申の乱に勝利し,皇位に就き、天武天皇として即位する事となります。
この大業に導いてくれた吉兆夢。
それを指し示してくれた桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立し、これが現在の櫻本坊となっています。

櫻本坊は、大峯山寺の護持院5箇院の1つとされる金峯山修験本宗別格本山にして、神仏習合の修験道の根本道場として今日に至っています。

伊勢斎宮の観月会

伊勢斎宮の観月会

伊勢斎宮の観月会へお招きいただきました。

それに先立ち、三重テレビ放送「ええじゃないか」でお馴染みのタレント・松島史奈さんと対談。

会場として、日頃は立入りが許されぬ「さいくう平安の杜」内・正殿へご案内いただきました。
そして、特別のご配慮を以て、古代装束に身を包み、正殿に昇殿。

斎宮制度化後に於ける初代斎王・大来皇女のイメージにて、素晴らしい対談のひと時を過ごさせていただきました。

格別なるご配慮を以て、正殿へ有り難くも昇殿をさせていただく貴重な経験をさせていただきました事、ご関係の皆様に厚く御礼を申し上げます。

史奈さんとは、歴代斎王の皇祖神祭り主としての想いを共有させていただき、彼女たちの魂に対し敬意を以て感じつつ、その御霊に拝させていただきました。

この日は、雲一つ無き見事なまでの晴天に恵まれました。
まさに至誠通天、神々のお恵みに、心から感謝致します。
そして、史奈さんとの素敵なご縁に感謝です。
詳しくはこちらから↓

吉野水分神社

吉野水分神社

この世には、目に見えぬ大いなる力がやはり存在するようです。

吉野の金峰山の中腹に鎮座する吉野水分神社。
ここでも、また!
とってもとっても、不思議なお導きをいただきました!

このお宮には、桜の季節以外は、宮司様はほとんどいらっしゃらないのですが、ふらっと立ち寄ったこの日、偶然にも宮司様がいらっしゃって、更には、約2時間近く、神社のご由緒や、様々なエピソードについて、貴重なお話を御教授をいただいたのでした。
決して、表には出されぬ、内々で密かに継承されるお話もあり、表の歴史と裏歴史との存在を感じました。

この地は、分水嶺となっている事から、「水分」の名を冠する吉野水分神社。
本殿の背後には、金峰山が聳え、金峰山山頂の奥宮を遥拝する形となっています。
創建は非常に古く、分かっている時代であっても文武天皇の御代という古さ。

主祭神について、お教えいただきましたが、これは決して口外してはならぬものとなっておりますので、この場では控えさせていただきます。

ただ、言えますのは、こちらは女性を守護してくださる神。
いつも、かような私の事を、多くの方々がお護り下さっているのは、神々のご守護の賜物だと改めて感謝の念でいっぱいです。

当社のご神威は、非常に強く、平安時代には、藤原道長がこの地に自らの娘で一条天皇の元に入内した中宮彰子の子授け祈願に訪れ、その翌年、見事、彰子は懐妊、後の後一条天皇、続き、後朱雀天皇の国母となられたという霊幻がありました。
以来、子守明神として、非常に霊幻あらたかとされ更に厚き信仰を集めるようになります。

時代が下り、安土桃山時代。
豊臣秀吉もまた、道長の例に肖り、子授けを祈願したところ、これもまた、鶴松、続いて、後の豊臣秀頼を設ける事となっていきました。

明治以降の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、ここ吉野水分神社は、神仏習合が守られました。
今でも、修験者が参拝に訪れる、非常に珍しい光景を見ることができます。

日頃はご不在という宮司様も、今般の出会いをとても不思議がられておられました。
また、宮司様より、非常に丁重な御教授をいただいた上、数々の御守護のご配慮をいただき、有難い限りでした。

調査研究に出掛けますと、度々、このような不思議なお導きをいただき、神々の強きお力を感じてなりません。

☆日本人よ、奮起せよ!! 真の指導者よ、立ち上がれ!!☆

加藤拓川

俳人・正岡子規の妹・律様のお孫様に当たられる正岡明様より、ご自身の祖父で、外交官や衆院議員、松山市長を歴任された加藤拓川(たくせん)(1859~1923年)の足跡をたどる展覧会へお招きいただき、有難くお伺いさせていただきました。

会場では、正岡様の格別なるご配慮を賜り、展示されているご所蔵の品々に沿って、拓川の幅広い交友や大義に生きた激烈なまでに尊い信条について、正岡様直々にお教えをいただきました。
また、日頃より懇意にさせていただいております四條畷学園創始者・牧田宗太郎氏曾孫・牧田朝美先生もお越しになり、楽しい学びのひと時となりました。

拓川は日露戦争前後、露・英・仏・独の列強に囲まれたベルギー・ブリュッセルで、多くの要人と接触。第一次世界大戦のパリ講和条約に出席したほか、親友の原敬首相の要請で特命全権大使としてシベリア撤兵に尽力しました。
また、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」では、子規の上京に尽力した人物として描かれており、同小説の主人公で、日露戦争で活躍した秋山好古(よしふる)とは幼なじみの大親友でいらっしゃったとか。
「坂の上の雲」の「影のキーマン」ともいうべき重要人物なのです。

会場には、好古が日露戦争出兵の直前に拓川に宛てた手紙をはじめ、帝政ロシアを揺さぶる諜報活動を行った軍人・明石元二郎、文豪・夏目漱石からの絵はがきなど幅広い交友がうかがえる資料、拓川がフランス土産として持ち帰り、子規が「フランスの一輪挿しや冬の薔薇」(明治30年)と詠んだアールデコ調の一輪挿しなど、子規の貴重な遺品も出展されていました。

特に、注目されるのは、第一次世界大戦を経て発足した国際連盟の意義に於いて、世界で初めて人種差別撤廃の理念が提唱され、これに大いに賛同された方でいらっしゃる事。
明治の日本の黎明期、激動の時代にあって、拓川は多くの要人と交流を温め、彼らの政治理念に大きな影響を与えました。
また、同志の多くが、515事件や226事件等で命を落としていく中で、自らもまた、国家の大義にその魂の限りあるまで、命を燃やし続けました。

記念写真上部に掲げられた額の激しい文字は、拓川が死のほんの数分前に書いた絶筆です。
「再び生まれて月を観なば 吾常にこの楼に於いてせむ」
命を擲って国家国民の為に死の間際まで魂を燃やし尽くした、まさに「真の武士(もののふ)」たるべき生き様死に様でした。

ややもすると「政治屋」に成り下がった為政者が蔓延る昨今だからこそ、近代日本の黎明を支えた英霊たちの尊き志を学び、私利私欲にまみれた政治屋を一掃、真の英傑たる人に立ち上がっていただかねばなりません。
そして、今一度、日本人としての誇りを取り戻し、奮起せねばなりません。
その為にも、今般、正岡様より学ばせていただきました事を、広く皆様にお伝えしてまいりたく存じました。

大変ご丁重な御教授を賜りました正岡様に心より厚く深謝申し上げます。
(※会場内でのお写真は特別な許可をいただいております事、ご承知置き下さい)

神武天皇聖跡・狭井河之上・顕彰碑

神武天皇聖跡・狭井河之上・顕彰碑

三輪山の麓の、山の辺の道沿いに、静かに、しかしとても厳かに、顕彰碑は佇んでいます。

嘗て、この地には、狭井川という川が流れており、この川のほとりで、神武天皇は、後に自身の后となる女性・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と出逢う事となります。
そして、彼女の屋敷があったのが、当顕彰碑の建つこの地でした。

『古事記』は、神武天皇と伊須気余理姫との出逢いを以下のように伝えています。

狭井川の岸辺を通りかかられた神武天皇と大久米命は、岸辺にて、七人の女性たちが遊んでいるのを見かけました。
その中にいたのが、伊須気余理姫。
実は、彼女は、大物主神の娘、要するに、大和の国の在地の神の御子であったのでした。

東征を成し遂げられた神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト・即位後の神武天皇)でしたが、神の正統な嫡孫として即位なさるには、初代天皇に相応しい皇后を迎える必要がありました。
そのような時局にあって、神倭磐余彦命の家臣・大久米命(オオクメノミコト)が、后候補として推挙したのが伊須気余理姫。
神倭磐余彦命が初代天皇として即位するには、その正統性を裏打ちする為に「在地の神の娘」を娶り、天孫と国津神末孫とが融和する事が必須と考えた大久米命は、「神の御子」である伊須気余理姫こそが皇后に最も相応しいと、磐余彦命に進言します。

この際、神武天皇と大久米命、伊須気余理姫とのあいだで取り交わした歌のやり取りが、「妻問い」として伝わります。

「倭(やまと)の高佐士野(たかさじぬ)を七行く媛女ども誰をしまかむ」
(大和国の川の畔の高台を行く7人の乙女のうち誰を妻としようか)

神武天皇と比売多多良伊須気余理姫との婚儀は、天業恢弘の大変重要な役割を担いました。
三輪の神に護られる、ここ狭井河之上聖蹟は、我が国の建国に深く関わる大切な聖地と言えましょう。