金屋子神社

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは、金屋子神社にいます。 島根県 安来市

島根県安来市広瀬町に鎮座する金屋子神社は、全国の製鉄業社の総氏神にして、金山彦・金山姫信仰の総本社にあたる非常に由緒深く、同時に、謎に包まれた古社へ、恵みの雨の中、出雲の山深くに坐す金屋子信仰根源神、そして降臨の地たる奥宮へ参拝に上がらせていただいた。

「日本最古たたら製鉄の祖神・金屋子神」

日本最古の製鉄は、出雲発祥の「たたら製鉄」に端を発するが、たたらの秘伝を民に伝えたのが、遥か昔に出雲の地へ降臨した金屋子神社創祀に深く関わる金屋子神という女神である。

金屋子神は、播磨国の岩鍋(現・兵庫県宍粟市)の地の人々の雨乞いの祈願を受けて一旦はかの地に降臨したものの、そこでは安住の地を得る事が叶わず、「我は西方を主とする神なれば、西方に赴き良き処に住まん」と言い残し、白鷺に載って西方へ飛び立ち再び゛出雲の現在の金屋子神社奥宮の鎮座する地・出雲奥非田の山頂へ降臨、そこに植わっていた桂の木にて羽を休めていたところ、偶然にそこを通りかかった、この地の住人・安部正重と出会う。

金屋子神は安部氏に「吾は金山彦天目一箇神なる金屋子の神である」と告げ、これを聞いた安部氏は大いに畏れ直ちにこの桂の木の傍に神殿を築き、安部氏自らが宮司として金屋子神を丁重に迎えお祀りした。

金屋子神も、安部氏の崇敬心に応えるべく、自らを鍛冶技師「村下(むらげ)」と名乗り、当地の人々に秘伝たる「たたら」の技術の伝承敷衍に努めた。

以後、代々、安部氏が宮司職を務めている。

「たたら製鉄」とは、鞴(ふいご)を用いて風を送り込む事によって火力を高め良質の鉄鋼を生成する技術であり、その技術の伝播によって石見銀山を始めとした全国の銀山はもちろんの事、鍛冶鋳物業全ての鎮守神として崇められ、現代に至るまで鉄鋼業全ての職場に於いては必ず金屋子神を奉斎している。

我が国の技術発展に大いに寄与し大いなる御神威を誇る金屋子神であるが、他方では、謎めいたエピソートを幾つか有している。

・犬が大嫌い。理由は、三つ目の犬に噛まれた傷が元で亡くなったから。

・ある日、三つ目の犬に吠えられ追いかけられて、逃げようとしたところ、蜜柑と藤の木に捕まって助かったので、蜜柑と藤は大好き。

・安部氏と出会った桂の木は大好きな御神木。

・また、ある日、三つ目の犬に再び追いかけられて逃げようとしたところ、麻につまず゛いて転倒し、犬に噛まれた怪我が元で亡くなってしまった為に、犬と麻が大嫌い。

・鉄不足に陥った際には、「たたら炉の周囲の柱に亡くなった者の死骸を吊るせ」と神託を下し、その通りにしたところ、大量に鉄を採る事が出来たという逸話も伝わる。

・自身が女性なので、女性が大嫌い。なので、現在でも、鍛冶関係の作業場は女人禁制。

時を経て、金屋子神は、金山彦・金山姫・天目一箇神と同一視されるようになっていった。

一方、「古事記」では、伊邪那美命が火之迦具土を産んだ際に大やけどを負い、病床て゛罹かれた嘔吐物から金山毘古神、金山毘売命が生まれたとあり、「日本書紀」の金山彦生誕の描写について「枯れ悩み(かなやま)こし悶熱懊悩因為吐」、則ち、伊弉冉命の全ての力が枯れ悩みこした挙げ句、大やけどによって激しく苦悶した一連の症状をも一つの「神事」と捉えている。

また、「金屋子」という社号そのものが「枯れ悩み児」なる意味を表す事に照らせば、この地が、伊邪那美命の終焉の地である事も示唆しており、この地で亡くなった伊邪那美命はその後、現・東出雲町の「黄泉比良坂」へ埋葬されたと考えられる。

また、金山神を奉斎する南宮大社や天目一箇神を奉斎する多度大社等多くの鋼鉄神が鎮座する地域は古来からの鋼鉄の産地であるが、その御神域近くの不破の関が非常に重視された事、この地を日本武尊が通られた事、天武帝や元正帝、聖武帝等各御代に於いて不破近辺が御巡幸のルートとされた事などを鑑みれば、不破周辺か゛古来からの鋼鉄の産地であり、その事が当時、非常に重要であり尚且つ聖地として捉えるべき一大要素であった事が窺われる。

また、金屋子神と同視される天目一箇神は風を司り、風神の鎮まる八風峠の麓に於いて御神威を誇るが、これは「たたら神」たる金屋子神ならではの特徴であり、鞴の風が尊ばれた事、そして、日本武尊をも破った、同じくたたら由来の神である伊吹大神の御神威への敬仰がそれらの風信仰へと繋がっていった。

日本武尊の辿られた道は鉱脈の道であったし、その鋼鉄技術の発祥の地が出雲であったのだ。
それが証拠に、伊吹の神は八岐大蛇の化身であり、これを退治すべく伊吹山に赴いた日本武尊は、謹みの心を忘れていた為に伊吹大神の猛烈なる御神威によって退けられる事となる。
「祟り」という言葉があるが、この語源は「たたら」にあり、元来は大いなる御神威への畏れを表すものであった。

神々の御神威が非常に偉大なるものである事を古代の人間はよく認識していた。

ましてや、我か゛国は神国である。

未た゛にコロナコロナとマスメディアが一斉連呼の扇動行為に及び、国民は自らを生かし守護くださっている神の存在を顧みず、扇動工作に易々と呼応するが如く只やみくもに不安を掻き立てられ右往左往するという有様であるが、何よりもまず、この国か゛神国であるという事を今一度、我々神州の民はしっかりと自認し、その覚悟と胆識、そして誇りを再び思い出さねばならない。

コロナ禍とは、神の下されし警鐘である。

 

第26回楠公研究会「伊勢神宮の源泉・大神神社・国難からの神国日本再興」

第26回楠公研究会「伊勢神宮の源泉・大神神社・国難からの神国日本再興」開催させていただきました。

伊勢神宮創祀は、第十代崇神天皇御代の疫病禍に端を発しています。

そして、大神神社は伊勢神宮創祀の源であり、元伊勢の元始たるお宮。

出雲大社とも深い御神縁を有しておられます。

南北朝時代には、南朝帝から厚い崇敬を受けた大神神社は、官軍側につかれました。

この事蹟からも、南朝帝が目指されたものが日本の国體の中興であった事を窺い知る事ができます。

今般のコロナ禍は、我々日本人に多くの教訓をもたらしました。

神国たる我が国の長い歴史に於いて、先人らの叡智によって乗り越えてきた多くの国難には、災害もあれば疫病禍もありました。

それら先人達の叡智の積み重ねの上に、今の日本が、我々が、神々と共に在る事を今一度思い至り、敬虔なる祈りと謹み深き感謝の念を決して忘れてはならぬと、今般の勉強会にて教えられました。

また、貴重なる楠公夫人像をご披露くださいました倉田様に感謝申し上げます。

大変ご丁重なるご教示を賜わりました大神神社神職様に厚く深謝致します。

また、お足元の悪い中、ご参加くださいました皆様、共に国體の真髄を学べました事をとても嬉しく存じます。

誠にありがとうございました。

出雲大社 出雲北島国造館

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは山下 八栄子さんと出雲大社 出雲北島国造館にいます。7月11日 ・ 島根県 出雲市

天穂日命(あめのほひのみこと・天照大神の第二の御子神で、御神勅により大国主大神に神勤奉仕された神)の御末裔に当られる出雲国造北島家御当主・北島建孝様に御挨拶に上がらせて頂き、北島国造館にて正式参拝のお導きを賜わりました。

元弘の変の折には、同じく官軍側として後醍醐天皇に尽くされた歴史もあり、600有余年の時を経てのご縁に感無量でございます。

連日の大雨のお天気模様でありましたが、出雲の全ての参拝の結びの一瞬、奇跡的に空に青空が広がり、大國主大神様の偉大なる御神威に感謝の祈りを捧げさせていただきました。

神々への感謝と国の護りの祈り、そして、親孝行の旅の結びは、空と同じく、心も晴れ晴れと浄く澄み渡りました。

大変ご丁重なるおもてなしを賜わりました北島様、ご縁のお導きをくださいました北島国造館の安田様に心より厚く深謝御礼を申し上げます。
誠にありがとうございました。

出雲大社


エックスサーバー

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楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは山下 八栄子さんと出雲大社にいます。2020年7月10日 ・ 島根県 出雲市 ・

出雲の大國主大神様を厚く崇敬してやまぬ母を誘い、神々への感謝を捧げる為、そして、親孝行の為の旅へ。
父が亡くなってからの母は、一人では遠方に行く事が叶わず、出雲大社へ参拝したいと日々願いつつも、なかなか参拝できずにいたからの、出雲への参拝および親孝行の旅でした。

出雲大社では、誠に有難き大國主大神様のお導きを賜わり、正式参拝をさせていただきました。

なんと有難くも格別なるご配慮を賜わり、瑞垣内の大國主大神様の御前にて参拝をさせて頂けました事、これ以上無き幸せでございました。

折からの雨模様でしたが、瑞垣内では暫し雨が止み、大國主大神様の大いなる御神威を感じました。

八足門内の瑞垣内は写真は不可でございますので、八足門前でのお写真とさせていただいております。

以前より、里帰りの際には必ず出雲大社様へ参拝に上がらせていただき、大國主大神様へ日々の感謝のご挨拶を申し上げさせていただくようにして参りました。

森羅万象に於ける最も重儀な哲理たる幽界の日沈を司る為、西方を向いてお鎮まりになられるていらっしゃる大國主大神様の御前で、母は大いに感謝、感激し、ただひたすら祈りを捧げさせて頂いておりました。

普段はややもすると怠りがちな母への孝行をさせていただけたならば、それだけで嬉しく感じています。

神々と先祖、父祖、両親に感謝の祈りを捧げると共に、大変な災害に見舞われております九州の皆様のご無事と1日も早き平安な日々の回復とを心より願わせて頂きました。

神々への畏れと感謝、敬虔な謹みの祈りと共にあるべき日本民族の原点回帰が切に求められる時局に至っており、神国の中興が大きな課題と肝に銘じ、今後尚一層、その大義の為に精進に努めて参る事を、大國主大神様へお誓い申し上げました。

この度のお参りにて、多くのご教授を賜わり大変お世話になりました出雲大社・川谷様に、心より厚く深謝御礼を申し上げます。



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稲蔵神社

 

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは稲蔵神社にいます。
7月7日 2:40 ・
奈良県生駒山麓に、鬱蒼と生茂った、少し薄暗い雰囲気のここ稲倉神社へ。
ここは紀元以前の古代から「神宿る巨岩・磐座」の霊験あらたかなる聖域として厚く崇敬されてきた。
同じく生駒山麓に鎮座する往馬大社と並び、生駒山の神々の坐す神域となる。

境内は昼尚薄暗いが、いざ、鳥居をくぐるり、鬱蒼とした森に封じられた境内の奥からは強い御神威を感じる。
余りに強い御神威を発する為に、鎮守森で封じているのかもしれない。

御祭神の生魂(イクタマ)は生命の神様で 生きる為の最も大切な「命を守る」神。

遥か古代、九州高千穂の天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天磐船に載り降臨する前、生駒山に降臨したもうひとりの古代大和の王であり、もう一人の天孫であった饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)もまた、現在の生駒山系である「哮峯(タケルガミネ)」に天磐船にて降臨、境内に鎮まるご神体の稲倉神社境内の巨大磐座「烏帽子岩」に饒速日尊が降臨、その際、共に天下った尊の「生魂」と「大宮能売御膳神」の二神の命の神も宿り、同時に鎮まった。

間も無く、饒速日尊は、同じく生駒山系の鳥見・白庭山に移った。

かくして、瓊瓊杵尊に互角に拮抗する強大な力を有する事となり、生駒山系を主要拠点した一大勢力となった。

しかし、神倭磐余彦(後の神武天皇)が宮崎から紀州を迂回し大和へと進軍して来、磐余彦の軍と饒速日尊の軍とが対峙した折、饒速日尊は争いの激化を避ける為、自ら、降る事を選択しようと考えた。

そうした処が、饒速日尊の妹・登美夜毘売(トミヤヒメ)が嫁いでいた長髄彦(ナガスネヒコ)は、義理の兄たる饒速日尊の決断に従わず、徹底抗戦の構えを崩さなかった為に、遂に、饒速日尊は義理の弟たる長髄彦を自らの手で暗殺、倭磐余彦に降った。

更に興味深いのは、稲蔵神社宮司家は、饒速日尊の重臣・長髄彦の末裔が務めていらっしゃる。

一旦は、仲違いに至った義兄弟でしたが、今は、義弟末裔が、自らを裏切り見捨てた義兄神を祖神としてお祀りされていらっしゃるのであり、これもまた、義に熱い大和民族の国柄であると、大いに考えさせられるものがある。

自身の末裔である神武天皇に王権を譲った饒速日尊は、その後は活躍の場を裏舞台に替え、饒速日尊以降、一族に伝わる十種神宝を以て、命と魂に活力を与える秘伝を密かに護り伝えつつ、大和朝廷と皇室を陰から支える事となった。

十種神宝の内容は以下の通りである。
* 沖津鏡(おきつかがみ)
* 辺津鏡(へつかがみ)
* 八握剣(やつかのつるぎ)
* 生玉(いくたま)
* 死返玉(まかるかへしのたま)
* 足玉(たるたま)
* 道返玉(ちかへしのたま)
* 蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話との関わり
* 蜂比礼(はちのひれ)  同上
* 品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

これらの経緯によって、稲倉神社磐座に降臨された饒速日を祖とする物部氏が、十種神宝等を始めとした兵器の製造・管理を司ってきた訳であり、これが石上神宮の鎮座にも深く関わっています。

生駒山系一帯には、饒速日尊降臨の地が交野市「岩船神社」、河南町「岩船神社」、山山頂近くの「饒速日山」、生駒山山頂「饒速日山」等等、幾つかの降臨地の候補が伝わるが、いずれにせよ、生駒山系一帯が饒速日尊の支配拠点であった事は間違いない。

境内には「神変大菩薩(ジンペンダイボサツ)」の御神名も刻まれ、即ち、役行者を祀っているが、こちらは古来の神仏習合の名残と言える。

明治時代以降は、地元では武運長久の「玉避け神社」の神として信仰されるようになった。

稲倉神社氏子区域たるここ小明村から日清日露戦争に13名が出征、不幸にも1名の戦死者を出したものの、12名との人々が無事帰還でき事蹟を鑑みれば、そこには人智を遥かに凌駕した神の力を禁じ得ない。

今では、無病息災・交通安全・病気平癒の御神威で知られ、今も尚、多くの方々に尊崇されている。

 

 

 

 

長瀬神社

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは、花井錬太郎さんと式内 長瀬神社にいます。 ・ 三重県 鈴鹿市 ・

古来、「武備塚古墳」と称され、日本武尊ゆかりの能褒野原に鎮まる墳墓の一つとして厚い崇敬を受けてきた地に鎮座する長瀬神社は、日本武尊外二十五柱を祀り、明治までは「武備神社」と称された。

江戸時代、大きな権勢を誇った亀山藩は、江戸中期になり日本武尊御陵探索が始まるとすぐさま、自領内に於いて、日本武尊ゆかりの墳墓と伝わる武備塚こそが日本武尊御陵であると公に宣言した。

以後、藩威発揚の心柱として、亀山藩の厚い崇敬を受けた由緒深き古社である。

明治以降は、鎮座地名を採って現社名に改名されている。

「武備(タケビ)」とは、日本武尊家臣団のうち武門を主とした家臣団の呼称であり、時代が下り「建部(タケベ)」と字が変遷していき、近江国一之宮・建部大社の社名にも深く関わっている。

同じく能褒野原に同時期に造営された円墳で、加佐登神社御本殿奥の白鳥塚古墳に比べると一回り小さい事、そして、日本武尊家臣団を表す「武備」と名付けられている事から、日本武尊御陵たる白鳥塚古墳の陪塚としての意味合いが強い墳墓であるようにも感じられた。

長瀬神社駐車場一角には、古来より例祭時の相撲場とされた祭祀跡が往時のまま残されている。

日本武尊を慕い、片歌研究者として知られる建部綾足(タケベノアヤタリ)は、日本武尊の今わの際の絶唱「はしけきや 我家のかたゆ 雲居立ちくも」の句碑を武備塚上に建立した。

伊吹山下山後、体を壊した日本武尊は、足の節々を腫らし、この地に辿り着く頃には歩行困難に陥っていたが、それでも尚、家臣団「武備」らに両脇を抱えられ、引きずられるようにして、伊吹山からこの地までようやく辿り着いた。

日本武尊の今際の際の願いは、故郷・大和に帰る事であったが、遂にその願いは叶う事無く、能褒野原の地で薨去された。

この日は、長瀬神社へ向かう車移動中のみ豪雨に見舞われたが、長瀬神社に到着した途端に晴天となった。

そして、武備塚古墳の日本武尊絶唱の句碑に着いた瞬間、再び雨が降ったがそれも一瞬で上がり、長瀬神社を後にし加佐登神社へ向かう為に境内を出る時には嘘のような晴天となった。

句碑前の雨は、日本武尊家臣団の涙であったのかもしれない。

椿大神社

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは、花井錬太郎さんと椿大神社にいます。・ 三重県 鈴鹿市

鈴鹿山系の入道ヶ峰と椿ヶ嶽を天然の社とする椿大神社の創祀のルーツは、悠久なる太古の神代より奉斎されてきた猿田彦大神御陵であり、原始の大和民族による猿田彦大神信仰が椿大神社創祀の淵源である。

境内には、夏越大祓の茅の輪が設けられ、国家安泰を祈りつつくぐらせて頂き祈願させていただいた。

椿大神社が鎮座する鈴鹿市山本町は、山麓集落である為、とりわけ米料理が珍重されてきた。

中でも、鶏飯は人々が集う時の最上の馳走とされ、参拝客へのもてなし料理となり、今では椿大神社の名物となっている。

同神社境内に、伝統の鶏飯を振る舞う食堂が併設されており、今回、初めて頂戴する機会を頂いた。

出汁の効いた甘辛いしっかりとしたコクのあるタレが絡む鶏飯は絶品である。

食後、花井様より椿大神社禰宜・山本様をご紹介頂き、ご挨拶をさせていただく有り難きご縁も頂いた。

山本禰宜様から松下幸之助翁寄進の境内茶室「鈴松庵」の御茶券拝領のお心遣いを頂き、暫しゆっくりと茶室にて過ごさせて頂いた。

茶室は、鈴鹿の”鈴”と松下幸之助翁の”松”をもって「鈴松庵」と命名され、鈴松庵東側には、御影石造りの御神殿を建立、椿大神社末社「松下社」として、生前に椿大神社へ何度も参拝、厚い崇敬を寄せた翁の御霊代が奉安されている。

椿大神社の記録としての初見は、人皇第11代垂仁天皇27年(西暦紀元前3年)になってから。
この年の秋8月、猿田彦大神から垂仁天皇第四皇女・倭姫命に対し、猿田彦大神の御神徳を讃え大神ゆかりの地にて祀るよう御神託が下された。

倭姫命はこの御神託を受け、磯津川(鈴鹿川)上流『入道ヶ峰麓』の猿田彦大神御陵に於いて『道別(チワキ=椿)大神の社』を創祀、その御陵前に鎮まる『御船磐座(みふねのいわくら)』付近に、天照大神の孫神・瓊々杵尊(ににぎのみこと)と、その母神・栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の二神を相殿として、猿田彦大神の后神・天之鈿女命と瓊々杵尊の后神・木花開耶姫命の二神を配祀、社が営まれた。

 瓊々杵尊が高天原より降臨されるに際し、天上にて数多くの道が分かれる「天の八衝」に於いて『道別の神』(チワキノカミ)として瓊々杵尊を出迎え、大神の人智を遥かに凌駕した御神威を以て、瓊々杵尊を高千穂の峰へ無事御先導された事により、肇国(ちょうこく=日本建国)の礎を成した神こそ、椿大神社の主祭神たる猿田彦大神である。

 時代が下り、人皇第16代仁徳天皇の御代、『道別』を『椿』の字に当てて社名とするようにとの御霊夢による御神託が下り、かくして、椿大神社が創建され現在に至っている。

御船磐座前には、倭姫命の甥・日本武尊とその子・建貝児王(タケカイコノミコ)とを祀る『縣主(あがたぬし)神社』が摂社として鎮座する。

 縣主神社は元来、現亀山市川崎町に当たる川崎村に鎮座し、『穂落大明神』又は『縣大明神』と称され、川崎村の鎮守社として厚い尊崇を受けてきたが、内務省による一町村一社なる小祠整理、神社統廃合政策により、明治41年(1908)に能褒野神社へ配祀、更に、平成10年10月には、椿大神社の山本行輝先々代宮司の出身地が川崎村であられた御神縁により、椿大神社境内に摂社として遷座された。 

倭姫命は、父帝・垂仁天皇の勅命を受けて、豊鋤入姫命の任を引き継ぎ、天照大神の御霊を奉斎するに相応しき聖域を求め、御霊を奉じて宇陀篠幡から近江国・美濃を巡って伊勢国へと入ったが、伊勢入国直後に倭姫命が天照大神の御霊を一時的に奉斎し仮宮としたのが鈴鹿山系の御在所岳山頂であった。

御在所岳を経て、北伊勢・野志里へ奉斎地を遷座して間もなく、伊勢一帯を統治していた猿田彦神後裔・宇治土公(ウジトコ・ウジノツチキミ)の祖である大田命が倭姫命の御前に馳せ参じ、「宇遅(宇治)五十鈴の河上(現伊勢内宮)に日本国内で最も殊勝で尊き霊地が在る」と進言した。

その進言を受けて、倭姫命がその地へ赴いた処、嘗て、天照大神が宮処として相応しいとして天上から投げ下ろされた天の逆大刀・逆鉾・金鈴等がその地に残されており、また同時に、天照大神より倭姫命へ「是の神風の伊勢国は、常世(トコヨ・理想郷)からの浪がしきりに打ちよせる国で、大和からは離れてはいるが美しい国である。

吾はこの国に居ようと思う」と御神託が下された。

早速、倭姫命は祠を建立し天照大神の御霊を鎮祭、この聖蹟が伊勢内宮創祀となっていくのだが、その初代斎王となった倭姫命こそ、倭建命の叔母であり、倭建命に天叢雲剣を授けた人物である。

長瀬神社(旧武備神社)へ続く

能褒野神社

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは、花井錬太郎さんと能褒野神社にいます。 ・ 三重県 亀山市

今般、大変素晴らしい御縁を賜り、鈴鹿商工会議所副会長を始め鈴鹿を中心に幅広く御活躍をされていらっしゃる花井錬太郎様を(社)楠公研究会へお迎えさせていただく事となりました。

それを機に、昨今多くの御神託を頂いている日本武尊ゆかりの地へ、去る令和2年6月26日、御案内の御厚遇を賜る運びとなりました。

講師として、鈴鹿の日本武尊研究第一人者として知られる川北富夫先生をお迎えさせていただき、鈴鹿市内に残る日本武尊の足跡を巡拝させていただきました。

「YouTube山下弘枝チャンネル・日本武尊聖蹟巡拝①~能褒野神社・能褒野御陵~」

今回の巡拝ルートは、近代に宮内庁によって比定された日本武尊御陵の在る能褒野~椿大神社~日本武尊を祀りその境内に倍塚が伝わる長瀬神社~古来より日本武尊御陵として尊崇をされてきた白鳥御陵の在る加佐登神社~日本武尊の死後にその冠や装束等を納めた「宝冠塚」「宝装塚」。

日本武尊終焉地巡拝第一弾は、能褒野王塚と能褒野神社が鎮座する神域について発信して参ります。

延喜式にも「能褒野墓、日本武尊、伊勢國鈴鹿郡に在り」と明記されている事から、既に平安時代初期には鈴鹿の能褒野に日本武尊の御陵が在ると認識されていた事が判明しています。
但し、平安期の「能褒野」とは、周辺の丘陵地一帯の広い範囲を表す地名であった為、近代以降に日本武尊御陵候補地が二か所となっていく遠因となりました。

能褒野王塚は三重県内最大の前方後円墳であり、尚且つ、能褒野古墳群として十六の倍塚を有している事から、非常に強大な権威を誇る人物が葬られた事も明らかであります。

元来は強大なこの地の豪族の王墓であり、「式内社県主神社」と称された古墳でしたが、明治12年11月に内務省によって、鈴鹿最大の前方後円墳である事を第一義として日本武尊薨去の地と決定、宮内省書陵部畝傍御陵墓管区管轄とされ、現在も非常に厳格な風格を備えています。

この後に引き続き参拝する白鳥陵が最古より伝わる日本武尊御陵とされてはいますが、白鳥が鈴鹿を飛び立ち大和・河内へと飛来しそれぞれにその御神魂が鎮まったが如く、近代に元来は地方豪族の王塚であった墓所が、日本武尊御陵と宮内省によって比定された事により、日本武尊の御神魂が降臨、鎮まられ、天神地祇の祀りの同義、否、神道を習俗とする大和民族の本義の象徴たる聖地として、ここ能褒野御陵の意義は非常に大きく尊きものであるのです。

能褒野神社では、辻宮司様より格別なるご配慮により、大変ご丁重なる御教授を賜り、御本殿での参拝のお心遣いも賜りました。

また、神社では地元新聞社の取材もあり、「建武中興の本義と後醍醐天皇の目指された尊き理念を根幹から理解する為には、我が国の国の成り立ちたる原点に回帰する事が必須であり、その根幹が理解できなければ大楠公の不世出なまでの高邁なる精神の神髄を理解する事はできない、だからこそ、今般の日本武尊の聖跡巡拝が非常に大きな意義を有し、恐らくはその為に日本武尊の御神託に導かれて本日の御縁に辿り着いたのだと思う」といった事を記者様にお話しさせていただきました。

当日の6月26日は、朝から終日90%の雨の予報でありましたが、今回も奇跡が起こり、なんと予報が覆されお天気は晴れ。
一同、御神威による必然の奇跡に大いに感動、感謝の祈りを捧げさせていただきました。

椿大神社へ続く。

金剛山麓まつまさ

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは、金剛山麓まつまさにいます。  大阪府 南河内郡

久々に千早赤阪村の「まつまさ」へ金剛山カレーを頂きに参りますと、千早城の模型が展示されており、千早城御城印という記念の御朱印もお受けする事ができました。

戦後、ほんの数年前まで、ほとんど知られる事が無かった楠公の事蹟に対して、昨今、光が当てられ、俄に、少しずつではあるものの盛り上がりを見せつつある事が嬉しくてなりません。

私の幼い頃では、想像もしていなかった程の一大ブームとも感じます。

この不世出なる事蹟は、日本精神を貫く大切な要であり、一時のブームで終わらせてはならぬと思っています。

存道館の平泉澄先生の千早城讃文のお言葉は、真っ直ぐに貫かれる清き強き皇国大日本の国體そのものを表しておられると感じました。

私自身の思いは、いつ何時如何なる事が在ろうとも一分もぶれる事は有り得ません。

何故ならば、私の身血隅々に至るまで、祖先からのDNAが刻み込まれているからであり、私の前には私の命の続く限り一本の道のみしか存在せず、ただそれに沿って進む以外に、何らの選択肢は存在しません事も改めて茲に申し添えさせていただきます。

「神戸ともみ組発足記念稲田朋美代議士講演会・併神戸ともみ組山下会長誕生日会」

☆「神戸ともみ組発足記念稲田朋美代議士講演会・併神戸ともみ組山下会長誕生日会」開催のお知らせ☆

平素は「神戸ともみ組」に多大なるご理解とご支援を賜り、心より厚く深謝御礼を申し上げます。
扨、いよいよ、神戸ともみ組本格始動致します。
来る令和2年10月4日(日)正午より、湊川神社及び楠公会館にて、「神戸ともみ組発足記念稲田朋美代議士講演会・併神戸ともみ組山下会長誕生日会」と題し、神戸ともみ組発足式と稲田朋美代議士講演会を開催させていただきます。

「神戸ともみ組」を立ち上げさせていただきましてから現在で3ヶ月となりますが、その間に、非常に多くの皆様より温かいご指導と激励のお言葉を賜り、また、神戸ともみ組発足記念式の開催を待ち望んでくださるお声も多く頂戴致し、感謝に絶えません。
コロナ禍以降、日本を取り巻く世界情勢は大きな変革期を迎えております。
そんな中にあり、今後も尚一層に精進し、稲田朋美代議士という国士と共に、道義国家たる真の日本国を取り戻すべく更に猛進して参ります。

折しも、当日10月4日は、不肖私の誕生日にも当たり、講演会後の懇親会にて、皆様とご一緒させて頂けますれば幸甚に存じております。
懇親会にも最後まで稲田代議士に御臨席賜る事となっております。

全国の志を同じくされます憂国の国士の皆様にお集まりを頂き、「神戸ともみ組」発足を広く宣言させて頂くと共に、真の日本を取り戻すべく稲田朋美代議士に更に益々頑張って頂く為に、そして、その国家大義をお支えすべく、是非、多くの皆様に於かれましては御出席を頂けまして、想いを共有、更なる連携力を強めて参りたいと存じます。
多くの皆様のご出席をお待ち致しております。

お申し込みは弊会Facebookページへのメッセージにてお名前、ご住所、連絡先、参加費支払い方法、懇親会参加意向をお知らせください。宜しくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

お問い合わせも上記のいずれかか、もしくはお電話の場合は090-3723-4251(西山)でもお問い合わせにご対応いたします。

☆タイムスケジュール☆
・午後0時   集合  於:湊川神社本殿前
(本殿に向かって右側、非理法権天旗目印)
(参拝は受付を致しませんので直接本殿前にお越しください)
・午後0時10分 正式参拝
於:湊川神社御本殿
(玉串奉奠:稲田朋美代議士、山下弘枝会長)
・午後0時30分 講演会受付開始
於:湊川神社内楠公会館2階・青雲の間ロビー
・午後1時   神戸ともみ組会長・山下より発足挨拶
        来賓挨拶
        稲田朋美代議士講演
        神戸ともみ組入会のご案内
        名刺交換など
・午後3時    発足式終了
☆会費:三千円(玉串料・会場使用料・お飲み物(ペットボトル))
※ペットボトルについてお茶以外をご希望の方はお申し込み時にご相談ください。
※講演会での食事の提供はございません。各自、講演会までに昼食をお済ませいただきご参加ください。
懇親会へもご参加される方はお昼は軽めにお済ませ頂く事をお勧めさせていただきます。

午後3時半   懇親会  於:がんこJR神戸駅店
午後5時半   散会
※懇親会飲食代は別途承ります(予算:三千円、飲み放題付き)

※楠公会館青雲の間は60名、がんこJR神戸駅店は20名を予定しています。
先着順として受け付け、申し込み多数の場合は予定を超えて限界まで対応いたします。
万が一、対応人数の限界を超えた場合は「神戸ともみ組会員(当日ご入会の方も含む)」を優先させていただきますのであらかじめご承知おきください。

以上 神戸ともみ組会長・山下弘枝