武漢禍・総締め括りは、いよいよ最終章

津島神社

楠公研究会代表理事・楠木正成公三男正儀流25代嫡孫・山下弘枝さんは津島神社にいます。6月13日 3:40 ・ 津島市

武漢禍総締め括りはいよいよ最終章。

津島神社境内の南西隅に鎮座する摂社・彌五郎殿。
私にとっては、こちらの社殿は津島神社境内社の中でも特筆せねばならぬ社だ。

当初は、牛頭天王を奉斎する祇園八坂神社社家・紀姓堀田家祖神「武内宿禰命」と、鋼鉄神「大巳貴命」とを祀る式内社「國玉神社」として、現津島神社元宮・居森社に創建されたのが創祀。(國玉神社鎮座地には諸説在り)

鎌倉開府、そして建武中興瓦解等、武家政権の台頭により國玉神社は衰退していった。
そんな中、吉野朝帝・後村上院の御代に当たる正平元年(1346年)7月13日、津島神社神主にして当時の堀田家当主・堀田彌五郎正泰が夢告を得、その神託を受けて國玉神社の社殿を現柏樹社鎮座地に造替、遷座し、その相殿に祖神・武内宿禰を奉斎した。
これにより、國玉神社社号は、「彌五郎殿社」とか称されるようになる。

堀田家は従来、紀氏を名乗っていたが、正応2年(1289年)、正泰の父・之高が拝領した中島郡堀田村に因み堀田氏と改姓したと伝わる。

尚、正平造替の折に、伯耆国・大原真守の作で、正泰の佩刀(現津島神社社宝)が、正泰自身によって寄進、奉納されている。
吉野朝、そして伯耆国といえば、言わずと知れた楠木一族や堀田一族と共に官軍側についた名和長年が思い起こされる。
もしやすると、正泰は、そういった関わり合いから、敢えて他でも無い伯耆国にて太刀を造らせ奉納したのかもしれぬ。
ちなみに、この太刀は、現在、津島神社にて収蔵され重要文化財に指定されている。

正平3年(1348年)、楠木正行に従って四條畷合戦に参陣、共に戦死している事から、我が一族ともゆかりの深き地である。

当然ながら、津島神社を氏神として厚く崇敬した織田氏は、彌五郎社の由緒を始め、津島神社が吉野朝の一大拠点であった事を知った上で自らの氏神としている。
かくして、津島神社の御神紋が織田氏の家紋となり、信長もまた、吉野朝崇敬者であり、その中興結実の為の一助を担わんとしたのである。

何はともあれ、巡拝のフィナーレには必ず、我が祖神に辿り着くのはなんとも不思議だ。

さて、病禍退散の最も御神威高き神社・津島神社をご紹介させて頂いてたが、最もお伝えしたき事は、日本という国の2680年にも及ぶ長い歴史とは、病禍や天災等の自然災害と共に歩んできたものであり、それらを封じんとして自然を畏れ敬意を奉り、森羅万象を神として崇め、それらを司る御神威に祈りを捧げる事によって、国土と国民を安んじてきたという事に尽きる。
建国以来ほんの数百年如きの歴史しか持たぬ某国とは比べようもないほどの、智恵の蓄積がある。
歴史とは、とりも直さず、先人の叡智の累積であり、結晶である。
今般の新型ウイルス騒動にしても、歴史の浅い各国と同レベル目線で見なして考えてしまっては、判断を大いに誤ってしまう。
ウイルス問題についても、諸外国は諸外国、にほんには日本の現状の違いと今後の対策の違いはなかてはならない。
我々日本人には、本朝開闢以来絶える事無き、叡智を蓄えているのだ。
そして、皇祖皇宗より男系、則ち非常に御神威の偉大なる陽神の御魂のみによって脈々と御神威が育まれ継承され、それによって、目に見えぬ結界が貼られている。
日本はなぜ他国に類の無き程に、病禍の被害が少ないままに収束していっているのか。
それがその答えである。
今後は、慌てることなく、冷静なる判断を迎えたい。
もはやインバウンドなる造語を断捨離する時に至った。
外ばかり向いていた目を、一度、内に回してみよう。
この大きな節目は、原点回帰が求められる事となる。
これは、日本は日本のやり方で経済活動に勤しみ、日本の伝統技術を重んじ継承する為の方向へ転換する導きであるる。
先人らが乗り越えてきた苦難と努力、その大いなる成果に思いを致し、日本人である事の自負と誇りを胸に、これからは本腰を入れて経済を回していこう。

そして、やはりここでも金鵄が山に、社殿に現れた。