楠木正行の歌に学ぶ

楠木正行の歌に学ぶ
かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる

通釈「戦場に赴いたならば、梓弓の矢のやうに、再び還って来ることはないと覚悟してゐたので、過去帳に乗るであらう人の名を書きとどめておかう」。
楠木正行は、河内國水分にて正成公の長男として生まれた。

父・楠正成公が湊川に出陣する時、正行は十一歳であったので、父から懇々と諭されて故郷の河内に帰り他日を期した。

正平二年、正行が二十二歳になると、藤井寺の戦ひで細川顕氏(ほそかわあきうじ)の軍三千騎、安倍野の戦ひで山名時氏の軍六千騎を撃ち破った。

そして、足利方は悪名高き高師直が総大将となり吉野に攻め寄せて来た。

翌正平二年一月五日、四条畷にて高師直・師泰連合軍約八万騎を、楠木勢約二千騎にて迎へ撃ち、正行は師直の本陣へと突入し、師直を討ち取る寸前までの奮闘を見せるが、やがて幕府軍の大軍に取り囲まれ、弟正時公と刺し違へて生涯を終へた。

決戦に赴く際、正行は弟・正時や和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇に拝謁してお暇乞ひをした。

後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。

しかし正行の覚悟は強く参内後に、後醍醐天皇の御陵を拝した後、如意輪寺の門扉を過去帳に見立て、決死の覚悟の一族・郎党一四三名の名前を記し、遺髪を奉納した。

そしてこの辞世の歌を寺の扉に鏃(やじり)で刻んだ。

辞世が刻まれた扉は現存しており、小生も以前に拝観したことかある。

如意輪寺は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。

山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。
本堂の背後には、吉野の地で崩御された後醍醐天皇の御陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)が鎮まりまします。
正行は、早くから死を覚悟してゐた。
後村上天皇は正行に弁内侍(べんのないじ)といふ女性を娶るやうに勧められたが、正行は辞退してゐる。

その時詠んだ歌が
「とても世に 永らふべくも あらぬ身の 仮の契りを いかで結ばん」(とてもこの世に長く生きることができる身ではない私が、どうしてかりそめの結婚をすることができようか、できはしない)
である。

天皇國日本存立および日本國民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と、國民の「尊皇精神」である。
國民が、神聖君主・日本天皇の大御心に「清らけき心」「明けき心」を以て随順し奉ることが、日本國永遠の隆昌の基礎であり、日本國民の倫理精神の根幹である。

私心なく天皇にお仕へする心は、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績に明らかに示されてゐる。

中世においては、大楠公・楠木正成、小楠公・楠正行、即ち楠公父子が尊皇精神の体現者であられた。

楠公父子の尊皇精神は、『太平記』『日本外史』などの史書によって後世に伝へられた。

明治維新の志士たちも楠公精神を継承して維新を戦った。

楠公父子の絶対尊皇精神は大きな影響を後世に及ぼし続けてゐる。

『桜井の訣別』(大楠公の歌) 落合直文 作詞、奥山朝恭 作曲、(明治三十六年)

「一、青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木(こ)の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(へ)に 散るは涙かはた露か

二、正成(まさしげ)涙をうちはらひ 我が子正行(まさつら)呼び寄せて 父は兵庫へ赴かむ 彼方(かなた)の浦にて討ち死にせむ 汝(いまし)はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

三、父上いかにのたまふも 見捨てまつりてわれ一人 いかで帰らむ帰られん この正行は年こそは 未だ若けれ諸(もろ)共に 御供(みとも)仕へむ死出の旅

四、汝(いまし)をここより帰さんは われ私の為ならず おのれ討死為さんには 世は高氏の儘(まま)ならん 早く生い立ち大君(おおきみ)に 仕へまつれよ国の為

五、この一刀(ひとふり)は往(いに)し年 君の賜ひしものなるぞ この世の別れの形見にと 汝(いまし)にこれを贈りてむ 行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん

六、共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに またも降りくる五月雨の 空に聞こゆる時鳥(ほととぎす) 誰かあはれと聞かざらん あはれ血に泣くその声を」

現代のわが國は、精神的・思想的・政治的に混迷の極に達してゐる。

また近隣諸國との関係も緊迫してゐる。

今こそ、楠公精神即ち絶対尊皇精神・七生報國の精神に回帰しなければならないと思ふ。